大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成7年(ワ)15908号 判決

原告

合田照子

右訴訟代理人弁護士

中原正人

被告

医療法人財団健和会

右代表者理事長

内村逸郎

右訴訟代理人弁護士

須田清

内藤寿彦

園部洋士

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は原告に対し、一九三九万二〇二〇円及びこれに対する平成七年八月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、被告が経営する病院でローレーター(歩行補助具)を使用して歩行中に転倒し、左上肢の機能及び歩行機能に障害を受けた原告が、被告には原告に適切な補助具を選択すべき注意義務に違反し、また、事故後適切な治療を怠った過失があることなどを主張して、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づき、後遺症慰謝料・介護料等の損害賠償を求めた事案である。

二  争いのない事実等

1  原告は、大正二年三月一〇日生まれの女性であり、平成六年一〇月二六日当時八一歳であった。

被告は、みさと健和会病院(以下「被告病院」という。)その他の病院を経営する医療法人である。

2  原告は、平成六年一〇月二六日、自宅で椅子から立ち上がる際に転倒し、腰を強打したため、同日、被告病院の救急外来を受診後、整形外科に入院し、同外科の医師である金秀成(以下「金医師」という。)らによる治療を受けた。(乙一)

なお、原告は平成三年八月にも右膝を骨折し、被告病院で治療を受けたことがあった。

3  原告は、平成六年一〇月三一日から被告病院の理学療法科においてリハビリを開始し、同年一一月二日からは、病棟内において、被告病院の職員の監視付きで歩行補助具であるローレーターを使った歩行訓練を開始した。同月八日からはローレーターによる自立歩行を行っていたが、同月九日午前八時三〇分ころ、入れ歯を病室内の洗面台で洗ってベッドに戻ろうとした際、ローレーターとともに横転し、両膝と右手を打った(乙一、二。以下これを「一回目の転倒」という。)。しかし、原告に怪我はなく、その後もローレーターによる自立歩行訓練が行われた(乙三)。

4  同月一六日午後四時過ぎころ、原告は病室内でローレーターとともに転倒し、左上腕骨頚部を骨折した(以下、これを「本件転倒」という。)。

被告病院は、同日、原告の左上腕を腋に付けてこれを三角布で支持し、その外側から帯(バストバンド)で固定する方法(以下「三角布による固定」という。)により骨折部を固定し、翌一七日からは、腋にエアバックスを固定し、その上に肘を外側に向けるような形で左腕を乗せて固定する方法(以下「エアバックスによる固定」という。)で固定を行った。そして、その後同月二三日からは、再度三角布による固定を行った。

5  同年一二月二日、原告は尿路感染症に脱水症状が加わって、心拍数が上昇する病状となったため、被告病院は抗生剤の投与を開始したが、その翌日には、尿路感染症と呼吸器感染症を併発した重症感染症、更には敗血症等が疑われる状態となった。そして、同月八日、原告の感染症が進行し、心不全等の症状が認められたため、被告病院は原告を整形外科から内科に転科させた。(乙一)

この間、同月七日には、レントゲン撮影により、骨折部が九〇度近く転位していることが判明した。また、感染症のため骨折部は腫張していた。(乙一、一五)

同月一二日ころからは、原告の発熱や骨折部の炎症は収まり、抗生物質の投与で足りる程度に病状は回復したが(乙一)、骨折部は、平成七年一月二六日には一八〇度近く転位していた(乙二三)。

6  その後、原告は入院治療を継続し、平成七年六月一五日に被告病院を退院した。しかし結局、骨折部は接合せず、原告の左上肢の機能は回復するに至らなかった。また、退院時には歩行機能も失っていた。

三  原告の主張

1  適切な補助具を選択しなかった過失等

原告は老齢であり、以前にも転倒し、被告病院で骨折の治療を受けたことがある。また、原告の家族は原告の入院に際し、被告病院に転倒の経緯等を詳しく説明していた。原告は、本件転倒当時足を引きずり、右足をかばった歩行しかできなかったため、ローレーターの操作に際しては、前に進んでしまうのを避けるために全体重をかけてしがみつくようにして操作していたのであって、方向転換もままならない状態であった。

被告病院は、これらの事実を認識し、原告が通常人より転倒しやすく、骨折しやすい特質をもっていることを十分に知っていたのであるから、原告の治療及び看護に当たっては、原告が病院内において転倒したり、骨折したりしないよう配慮すべき注意義務がある。

具体的には、原告を自立歩行させるに際して事前に十分な訓練を行うべき義務、原告の歩行能力、特質等を考慮した上で適切な補助具を選択すべき義務、選択した補助具の取扱いや操作方法について十分に説明をすべき義務がある。さらに、原告が一回目の転倒をしている以上、被告病院としては、その原因を究明するとともに、改めて原告に対してローレーターの操作方法を具体的に説明し、指導すべき義務がある。

ところが、被告病院は原告に対し、事前に十分な訓練も行わないままローレーターによる自立歩行を行わせた。ローレーターにはブレーキがなく、原告のように歩行状態が安定しない者にとっては危険な器具であり、しかも、原告に貸与されたローレーターは四輪でなく、転倒しやすい三輪のものであった。そして、自立歩行に際して、被告病院の医師や看護婦は、原告に「しっかりつかまりなさい。」と言うのみで、どのような場合に転倒するおそれがあり、したがってどのような注意が必要であり、また、実際にどのように操作したらよいかなど使用方法について説明をしなかった。本件転倒以前に原告は一回目の転倒をしたのであるが、その後も被告病院は、原告に漫然と三輪のローレーターを使用させるとともに、「しっかりつかまりなさい。」と言う以上の説明や指導をしなかった。

被告病院には前記注意義務を懈怠した過失があり、本件転倒は右過失によるものである。

2  骨折治療において固定方法を誤った過失

本件転倒による原告の骨折はごく典型的なものであり、その治療方法もごく典型的なものであったから、被告病院としては、解剖学的に正確な整復と強固な固定を行い、相当期間骨折部の固定を継続することによって、骨折部を完治させることができたのであり、そのような治療を行うべき注意義務があった。

ところが、被告病院は、エアバックスによる固定を継続してこそ骨折部が接合し、左腕の機能が回復したにもかかわらず、一週間後にはこれを中止し、肩の付け根部分の骨折の固定方法としては役に立たない三角布による固定に変更してしまった。

右変更により、骨折部の固定は止めたに等しい状態になり、平成六年一一月二九日までは順調な経過をたどっていた原告の骨折部の関節は、固定方法が変更された後の同年一二月七日には九〇度、平成七年一月二六日には一八〇度と大きく転位してしまった。

被告病院には前記注意義務に違反した過失があり、この過失により、原告の左腕の機能は失われた。

3  原告を感染症に罹患させた過失

近時、病院内においてはMRSAを始めとする院内感染症の発症が問題となっているばかりか、特に骨折部は細菌が侵入し、感染症を引き起こしやすい箇所であることは周知の事実である。原告は感染症に罹患しやすく(易感染症)、平成六年一一月一日には尿路感染症に罹患していた。

被告病院はこれらの事実を認識していたのであるから、原告を感染症に罹患させないよう注意すべき義務、感染症罹患後においては、原告を重症に陥らせたり、骨折部に感染が及んで新たな感染症が発症したりしないよう抗生剤を投与するなど、十分な感染症対策を採るべき注意義務がある。

ところが、被告病院は、病院感染対策委員会を設置したり、病院感染対策マニュアルを作成してこれを実行することはもとより、原告が入院していた整形外科病棟においては消毒薬による手洗いすら実施していなかった。そして、原告が感染症に罹患した後も、原告が発熱し、呼吸困難の症状を呈して意識が混濁してしまった同年一二月二日に至るまで抗生剤投与等の治療を行わなかった。

被告病院には前記注意義務に違反した過失があり、その結果原告は敗血症になり、骨折部に蜂窩織炎を発症するなど、次々と感染症に罹患したものである。

4  損害

原告は、本件転倒による骨折部が接合しなかったため左上肢の機能を失ったことに加え、治療のため長期間寝たきりの状態を余儀なくされたことから歩行機能も失い、要介護状態となった。これにより原告は、以下のとおり合計一九三九万二〇二〇円の損害を被った。

(一) 後遺傷害慰謝料

原告の右後遺症は、後遺傷害別等級表にいう第四級に相当し、慰謝料としては六八七万円が相当である。

(二) 介護料

原告の後遺症からすれば、食事・トイレ等のため一日三時間の介護が必要であり、一時間一〇〇〇円として、平均余命7.62年をもとにライプニッツ係数を六として計算すると、介護料として六五七万円が相当である。

(三) 傷害による入院慰謝料

原告は左上腕骨頚部骨折により、平成六年一一月一六日から平成七年六月一五日まで七か月間入院治療を受けた。そして、その間感染症に罹患し、呼吸困難にまで陥ったことを考慮すると、慰謝料としては二五〇万円が相当である。

(四) 入院諸雑費

原告は被告病院に七か月間入院した。その間の入院諸雑費としては一七万円が相当である。

(五) 医師往診料等

被告病院の指示によるウロバック交換等にために担当医に月二回、看護婦に月四回往診してもらう必要があり、交通費を含むその費用として、(二)と同様に計算すると一六万二七二〇円が必要である。

(六) ベッドレンタル料

原告には被告病院のソーシャルワーカーが選定した特殊ベッドが必要であり、そのレンタル料を一か月一万五〇〇〇円として、(二)と同様に計算すると一〇八万円が必要である。

(七) 介助バー・交換用ウロバッグ・手袋・ナーセントトイレ・コンセントコール費用

有費用として、(二)と同様に計算すると三三万九三〇〇円が必要である。

(八) 弁護士費用

一七〇万円が相当である。

四  被告の主張

1  原告の主張1について

原告の家族が入院の際に転倒の経緯等を詳しく説明したことはない。また、原告が以前右膝を骨折したためにこれをかばった歩行しかできなかったということもない。原告は転倒しやすい特質であったというが、そのような抽象的な特質というものはあり得ない。

被告病院に原告が主張するような各義務があるという点は争う。仮に右義務があるとしても、以下に述べるように被告病院はその義務を果たしている。

まず、ローレーターを貸与したことは安全上適切な措置である。ローレーターは歩行機能に関するリハビリの用具として最も普通に用いられているものである。

被告病院においても従前から原告と同様の患者にこれを使用させてきたが、過去に転倒の事例は一度もない。そして、被告病院が原告に使用させたローレーターは三輪ではなく、より安全な四輪のものであった。なお、ローレーターはその構造上ブレーキを必要とするようなものではない。

被告病院は、原告の機能の回復を注意深く観察しながら、ホットパック、簡単な運動療法、監視を付してのローレーター歩行、ローレーターによる自立歩行と、段階を踏んでリハビリのレベルを上げていったものであり、原告に対するローレーターの事前の訓練は十分に行っていた。

ローレーターの取扱い・使用方法については、どうすれば歩行できるか、どうすれば転回できるかといった点や、故意に傾けたり、障害物にぶつけたり、障害物があるにもかかわらず無理に動かせば転倒の危険があるといったことは、ローレーターの形状を見れば、使用する者において当然に認識できるのであり、これを説明しなくても説明義務違反となるものではない。仮に、被告病院にその点の説明義務があるとしても、被告病院は原告に対し、監視付き歩行訓練において、方向転換する際に小回りしようとすること、キャスターに物が接触した際に強引に方向転換をしようとすることなど不適切な操作方法については注意を与えていたし、一回目の転倒後は、原告が転倒しないようローレーターの操作の障害となる物を片付けるなどして転倒事故の防止に努めていたのであるから、その義務を果たしている。

また、いかなるリハビリ方法・用具を選択するかは、医療上の措置の一環として医師又は理学療法士の裁量に委ねられている事項であるところ、被告病院は当時最も普通に用いられていたリハビリ器具であるローレーターを周到な準備の上で使用させたのであって、被告病院に右裁量の逸脱はない。

2  原告の主張2について

骨折部の固定方法について、三角布による固定を行うべきでなかったとはいえない。エアバックスによる固定と三角布による固定のいずれの方法も、上腕骨頚部骨折の治療においては一般的に行われているところ、通常は三角布による固定が行われ、エアバックスによる固定は、骨折部が不安定であったり、大きく転位している場合に用いられる。原告は初期において特に転位が大きいという状態ではなく、どちらを選択するかは医師の判断に委ねられており、いずれか一方のみを選択すべきであり、そうしなかったことに判断の誤りがあるというべきものではない。

被告病院は固定方法をエアバックスによる固定から三角布による固定に変更したが、これはエアバックスによる固定を継続していた際、原告が腕を広げていることに次第に苦痛を覚えるようになり、そのために腕を動かし、かえって骨折部の安静が保たれなくなったため、一週間後に固定方法を変更したものである。

固定方法を変更した後である平成六年一二月七日には骨折部が転位していることが確認されたが、原告は同月二日に尿路感染症に罹患し、脱水症状が加わって心拍数が増え、心不全状態になるとともに、呼吸状態が悪化するなどの病状にあり、同月八日には整形外科から内科に転科した。当時、原告はいわば生命の危険さえあったのであって、そのような状況下で固定方法を強化しなかったのは当然の判断である。

なお、上腕骨頚部骨折では、いかに十分な整復を行っても、保存的治療(非手術的治療)では骨癒合が得られないケースがあり、そのような場合には手術的治療(内固定若しくは人工骨頭置換術)を行うことになる。しかし、こうした手術は全身麻酔を使用するから、全身状態の良くない患者や高齢者に対しては行われない。原告は高齢であることに加えて、当時は全身状態が極端に悪化していたのであって、到底手術を行える状態ではなかった。その後、原告の全身状態はある程度回復したが、被告病院ではなお手術の危険性を考慮してこれを行わなかった。

このように、原告の骨折部が接合しなかったのは、感染症による苦痛と骨折部に感染症が及んだことによるのであって、被告病院の過失によるものではない。

3  原告の主張3について

原告が主張する義務は法的義務ではないし、右義務の懈怠と感染症罹患との因果関係も不明である。

原告を重症に陥らせたり、新たに感染症に罹患させないよう注意すべき義務は抽象的な努力目標にはなり得ても、法的な義務ということはできない。

4  原告の主張4について

争う。なお、原告が歩行機能を失った事実があるとしても、それは本件転倒による骨折に起因するものではなく、原告自身の老齢に由来するものである。

5  過失相殺

本件事故は、原告が強引なローレーター操作をし、ベッド等の脚部にキャスターを引っかけるなどして生じたものとしか考えられず、本件事故について原告の過失は極めて大きい。損害額の算定においては、右過失が斟酌されるべきである。

五  争点

1  被告病院に原告に適切な補助具を選択しなかった過失等があるか。

2  被告病院に原告の骨折治療において固定方法を誤った過失があるか。

3  被告病院に原告を感染症に罹患させた過失があるか。

4  損害額

第三  判断

一  前記争いのない事実等と証拠(甲一ないし三、五の1及び2、六の1ないし5、乙一ないし三、六ないし二八、二九の1及び2、三〇ないし三二、検証の結果、証人金秀成、同川面史郎、同神沢順子、同合田法夫の各証言及び原告本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。

1  平成六年一〇月三一日、被告病院では、原告の腰痛の痛みを鎮痛剤である程度コントロールできるようになり、体の動きも次第によくなっていたことから、原告の筋力を維持し、いわゆる寝たきり状態になってしまうことを防ぐため、担当医であった金医師の指示により、理学療法科において、立ち上がり・歩行訓練を目的としたリハビリが開始された。

理学療法科では、同日は簡単な運動療法のみを実施し、翌一一月一日から、平行棒を使った歩行訓練等を開始した。

2(一)  同月二日、理学療法科では原告に対し、平行棒による歩行訓練等を実施するとともに、監視付きでローレーターによる歩行訓練を行い(二〇メートルくらいを二回)、その後病棟内における監視付きでのローレーターによる歩行訓練を開始した。被告病院では、理学療法士が患者に合ったローレーターを選択し調節した後は、その患者専用として名札を付けたローレーターを貸与することにしていたため、原告に対しても名札付きのローレーター一台が貸与された。

(二)  ローレーターとは、下肢の筋肉が弱い人が上肢の筋肉をも使って歩行訓練をするための器具であり、上部には上半身を支える馬蹄型の手すりがあり、脚部には後方両側面に各一個と、前方に一個(合計三個)ないしは前方両側面に各一個(合計四輪)のキャスターが付いている。なお、前方のキャスターは方向が自在に動くのに対して、後方のキャスターは前後にしか動かないように固定されている。また、手すりの高さは使う者の身長に応じて調節することができるようになっている。これを使用する者は、馬蹄型の手すりの部分に上半身を入れ、手すり部分に両肘をついて上半身を支えて歩行訓練を行うことになる。

被告病院にも三輪と四輪のローレーターがあったが、両者は直進歩行に使用する限りその安定性に違いはない。しかし、左折ないし右折をしようとする場合、三輪のローレーターは、キャスターが三つしかないため、体重を左斜め前方ないしは右斜め前方に掛け過ぎると揺らいで傾き、転倒の危険を生じる不安定さを有している。これに対して、四輪のローレーターは、両側面の前後に一つずつキャスターが付いているため安定性に優れており、右のように体重を掛けたとしても、ローレーター自体が揺らぐことはなく、転倒の危険はほとんどない。なお、いずれのローレーターにもブレーキはついていないが、ローレーター自体は八キログラム程度の重量を有し、キャスターは小さく、回転しやすいものではないから、ある程度の力で押さない限りローレーター自体が体から離れて前に進んでしまうことはない。

なお、原告は、被告病院から貸与されたローレーターは三輪のものであったと主張するが、検証の結果及び証人川面史郎及び同神沢順子の各証言によれば、三輪のものは四輪のものと比べて安定性に欠け、高齢で腰痛を抱えた患者に三輪のものを使用させることは危険であったことから、被告病院においては三輪のローレーターは若い人にしか使っておらず、高齢者には四輪のローレーターを使用させていたこと、看護婦である神沢順子(以下「神沢看護婦」という。)は本件転倒後原告のローレーターを返却する際、原告がローレーターごと倒れたことが不思議で、実際に倒れるものかどうか試してみたが、原告のローレーターはバランスが良く、傾かなかったことが認められ、これらの事実によれば、被告病院が原告に貸与したローレーターは四輪のものであったと認めるのが相当である。

原告は、原告に貸与されたローレーターは三輪のものであったとし、その理由として、自分のローレーターは他の人のものより横幅が大きく、煙草の入った袋を引っかけるのに便利な黒いボタン(高さ調節用のねじのことと思われる。)が右手にあった旨供述するが、検証の結果によれば、横幅の大きさの点に関しては、三輪のものは四輪のものより横幅が大きいが、その違いは手すり部分で五センチメートル、足まわり部分で一三センチメートルにすぎず、一見して両者の大きさの違いを認識できるほどの違いではないし、ねじがあったとする点については、黒とグレーという色の差はあるものの、四輪のローレーターにも三輪のものと同様のねじが右側に付いていることが認められるから、右供述をもって前記認定を覆すことはできない。

(三)  被告病院の理学療法士は、原告にローレーターを貸与するに際して、ローレーターにはキャスターが付いているので余り強く押すと体から離れてしまうことやローレーターを無理に回転させてはいけないことなどを指導した。

ところで、ローレーターには、これを押せば動くという以外の機能はなく、使用方法はその形状から容易に認識し得るものであって、特にその使用方法を修得しなければ使用できないような機能が備わっているものではない。なお、前記のとおり、ローレーターにはブレーキがないため、前方に過度に体重を掛けるなどして強く押すときには、ローレーターが体を離れて前に進んでしまい、その結果バランスを崩して倒れてしまうおそれがあるが、そのことは使用する者において、その形状から一見して認識することができる。

3  一一月二日、原告は病棟内で、監視付きでローレーターによる歩行訓練を開始した。その時点では、原告の操作はまだ不慣れであり、ローレーターに体が付いていかず、トイレで後ろ向きに歩くときなどには不安定さが感じられるものであった。

同月三日、原告のローレーターによる歩行は安定している時もある反面、動きが悪く、付き添っている者が少しローレーターを押してあげないと歩行できない時もあった。

同月六日ころには、原告のローレーターによる歩行は改善されてきた。なお、この間、原告の腰痛は鎮痛剤(座薬)の効果でコントロールされており、原告は、座薬を使ったら動ける旨看護婦に述べていた。

同月八日、理学療法士はローレーターによる歩行訓練に加えて、T字杖を用いた歩行訓練を初めて行ったが、原告はT字杖を使って歩行するとバランスが悪く、前方突進様の歩行になってしまうため、その使用はまだ危険であると判断された。また、同日、原告の家族が被告病院に来院し、退院に向けた栄養指導の日取りの打合せがされた。そのころ、原告は監視付きでローレーターを使用していたが、原告を観察していた看護婦は、原告がローレーターを使って自立歩行できるのではないかと考え、理学療法士にその点を打診した。理学療法士は、原告の歩行は安定しているが、立ち上がりが危ないのでまだ自立歩行は早い旨いったんは回答したが、その後ローレーターによる自立歩行が可能であると判断し、金医師の決定を得た上で、同日午後四時過ぎから、原告はローレーターによる自立歩行訓練を開始した。

同月九日、原告は病室内で一回目の転倒をした。しかし、原告に怪我はなく、その後もローレーターによる自立歩行訓練が行われた。一回目の転倒後、看護婦が原告に転倒の原因を尋ねたが、原告が明確に答えられなかったため、看護婦は、ローレーターのキャスターがベッドかポータブルトイレに引っかかったことが原因であろうと推測し、ベッドの足元のストッパーが外に張り出さないよう内側にたたむなど、室内の障害物を片づける措置をした。

同月一〇日から一六日まで、原告は引き続きローレーターによる自立歩行訓練を行った。この間、原告の腰痛は軽減傾向にあり、同月一四日には原告から、座薬は不要である旨の申出がされた。理学療法士は、原告のローレーターによる歩行は安定しているが、T字杖による自立歩行が困難であることから、退院後自宅ではつかまり歩き程度の歩行になるであろうとの予測を立てていた。同月一五日には、台を使用した正座位からの起立、両手支持の上での一七センチの段差昇降、手すりにつかまっての入浴がいずれも可能となり、近々の退院を念頭に置いて原告の自宅の見取図が原告の家族から取り寄せられ、同月一六日にはT字杖を使った歩行訓練が再度行われた。なお、このころ、煙草が好きな原告は、喫煙のためローレーターを使って病棟のロビーへの往復をしていた。

4  同月一六日午後四時過ぎころ、病室内において本件転倒が発生した。本件転倒時、病室内に看護婦はおらず、同室の患者の家族の呼び声とナースコールを聞いた神沢看護婦と看護助手が駆けつけた時、原告は自分のベッドと出入口側の隣のベッドとの間(幅約五七センチメートル)に挟まれるようにして、枕の方を頭に、ローレーターを脇に挟んだまま体の左を下にする格好で横向きに倒れていた。

神沢看護婦は看護助手とともに、原告を起き上がらせ、本件転倒の原因を尋ねたが、転倒の動揺からか原告は分からないと答えるのみであった。神沢看護婦は看護助手と本件転倒の原因を話し合ったが、その際看護助手は、原告のローレーター操作を見ていたとき、原告が部屋の出口でローレーターの足元の広がった部分を考慮しないで回ってしまうためキャスターが壁などに引っかかってしまうが、原告はそれにもかかわらず強引に力まかせに押していたことがあった旨を告げた。

なお、転倒時の状況について原告は、病室奥の洗面台前のスペースから自分のベッドに戻ろうとした時、急にローレーターが地震のように揺れて転倒した、その際、ベッドにはぶつからなかった、同室の患者の家族に起こしてもらい、その後は自分でローレーターを使ってベッドに戻った旨供述するが、洗面台前のスペースに障害となるような物があったとは認められず、前記認定のとおり原告のローレーターは四輪のものであったから、それが急に揺れて転倒するとは考えられないこと、左上腕を骨折しながらローレーターで自分のベッドに戻ったというのは不自然であることなどからすれば、原告の記憶は暖昧なものといわざるを得ず(右転倒時の状況は、一回目の転倒のそれと類似している)、右供述をもって前記認定を覆すことはできない。

5  原告は、本件転倒により左上腕骨頚部を骨折した。金医師らは、骨折部がほぼ一直線であり、転位がないため、整復しなくても治療できると判断し、固定による治療を選択した。そして、固定方法としては、転位のおそれという観点からはエアバックスによる固定と三角布による固定に大きな違いはないが、固定がより確実で転位の少ない方法として、エアバックスによる固定が選択された。しかし、被告病院にはエアバックスが常備されておらず取り寄せる必要があったため、本件転倒当日は三角布による固定をした上で、エアバックスが届いた同月一七日からそれによる固定を行った。

同月二三日ころ、原告はエアバックスによる固定に痛みを訴えたが、固定によって痛みが生じる場合、筋肉が緊張してしまったり、無意識に骨折部を動かしてしまうことによって骨折部が転位してしまうおそれがあった。そこで、金医師らは、転位のおそれに大きな違いがない以上、痛みのない三角布による固定の方が望ましいと判断し、固定方法を三角布による固定に変更した。右変更後、原告は、「大きな荷物を下ろしたようで楽です。」と述べていた。

なお、この間原告は、同月二一日、T字杖を使い介助付きで理学療法室に来室して歩行訓練等を行い、同月二四日以降も同月三〇日まで、簡単な運動療法や介助付きでT字杖による歩行訓練等を行った。

6  同月二二日ころから、原告に膀胱炎症状が見られ、痛みの訴えとともに血尿、潜血が確認された。しかし、同月二三日以降、それらの症状はなくなり、原告の容態は安定していた。

同月二七日ころから、原告は左肩及び腰痛の痛みを訴え始めた。しかし、同月二九日に行われた骨折部のレントゲン撮影では、骨折部に特に転位は見られず、なお順調な経過をたどっていた。ところが、同月三〇日ころから原告の痛みの訴えが激しくなり、強い痛みによって骨折部が動き、大きく転位してしまうことが懸念されたため、翌一二月一日、バスタオルを挟んで骨折部を再固定する措置がされた。

一二月一日ころから、原告は声をかけられてもあまり反応しなくなるとともに、翌二日ころからは不整脈と顕著な発汗が観察され、息苦しさを訴えるなど容態が悪化し始めた。被告病院は、原告が尿路感染症とそれによる脱水により頻脈になっているものと判断し、抗生剤による治療を開始した。同月三日、原告の容態は更に悪化し、頻脈、下腿の浮腫、酸血症等が認められ、尿路感染症に加え、誤嚥による気道感染症、代謝性アシドーシス、感染による敗血症等が疑われたため、抗生剤、アルブミンによる補給、ジキタリス剤の投与などの治療が行われた。その結果、同月四日から六日にかけては、呼吸困難が続くものの、不整脈は次第になくなり、意識レベルの低下が見られなくなるなど、原告の症状は幾分改善の方向に向かった。

しかし、同月七日、原告の呼吸時に雑音が生じるとともに、頚部硬直、骨折部の腫張、熱感、下腿の浮腫等の症状が確認され、黄色ブドウ球菌による蜂窩織炎、誤嚥性肺炎、慢性心不全等が疑われる病状となった。原告の一連の症状が不安定であったため、金医師らは整形外科における治療では限界があると判断し、被告病院の内科へ転科させることとした。同日、骨折部のレントゲン撮影が行われ、骨折部が約九〇度転位していることが判明し、そのままの状態では骨折部の接合は不可能であったが、骨折部が腫脹していたため、固定を強化することは困難であった。また、通常であれば、骨折部が転位して自然な接合が期待できないときは、人工骨頭を入れる手術も検討されるところ、原告の状態は全身麻酔を必要とする右手術には耐えられないと判断されたため、手術は見送られた。結局、被告病院としては、感染症の治療が先決であり、骨折部の治療については、一応可能な範囲での固定を継続するにとどめざるを得ないと判断した。

二  以上の認定事実を下に、原告が主張する被告病院の注意義務違反について検討する。

1  争点1について

原告は、被告病院は事前に十分な訓練をしないまま原告にローレーターによる自立歩行を開始させた過失がある旨主張するが、前記認定のとおり、被告病院は、平成六年一一月二日に原告にローレーターを貸与して監視付きでの歩行訓練を開始した後、同月八日までこれを継続したが、その間、看護婦らは、原告のローレーター操作が安定しているかどうか、腰痛の痛みがコントロールされているかどうかを観察し、その結果、原告のローレーターによる歩行が安定し、近い時期での退院が見込めることが確認され、看護婦から連絡を受けた理学療法士は、原告はローレーターによる自立歩行が可能であると判断し、金医師はその旨の決定をしたものである。右認定事実によれば、原告にローレーターによる自立歩行を開始させるに当たって事前の訓練が足りなかったということはできず、また、右自立歩行を開始させた判断に誤りがあったものということはできないから、原告の前記主張は採用することができない。

また、原告は、被告病院は転倒の危険性が高い三輪のローレーターを原告に使用させた旨主張するが、原告に貸与されたローレーターが四輪のものであっても三輪のものでないことは前記認定のとおりであるから、右主張は理由がない。

さらに、原告は、被告病院には原告にローレーターによる自立歩行をさせる際、その操作方法等について説明をせず、一回目の転倒後も漫然とローレーターを使用させた旨主張するが、前記のとおり、ローレーターは形状自体からその使用方法を容易に認識できること、これを原告に貸与した時点において、理学療法士はその操作方法について注意すべき点を指導していたこと、一回目の転倒後、看護婦はその原因を推測し、原告が再度転倒しないよう病室内の障害物を片づけるなどしたこと、その後、原告のローレーターによる歩行は安定し、ローレーターを使って喫煙のため病棟のロビーまで出かけるなどしていたことが認められるのであって、本件転倒が被告病院の説明ないし配慮が欠けたことによるものということはできない。

2  争点2について

原告は、被告病院が骨折部の固定方法を三角布による固定に変更したのは、固定を止めたに等しく、このため骨折部が転位してしまった旨主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、右変更は、原告がエアバックスによる固定に痛みを訴え、このような場合、かえって転位が進んでしまうおそれがあると考えられたためであること、三角布による固定も固定方法として不十分なものではなく、変更して六日後の平成六年一一月二九日に行われたレントゲン撮影でも特に転位は見られなかったこと、被告病院はその後も三角布による固定を継続し、同年一二月一日には転位を防ぐためバスタオルを挟んで再固定する措置をしたことが認められ、右事実によれば、右変更をもって被告病院が原告の骨折部の固定を止めたものということはできず、本件全証拠を検討しても、右変更によって転位が生じたものと認めることはできない。

ところで、前記認定事実によれば、原告はその後感染症に罹患し、その治療が続けられていた一二月七日の時点で骨折部が約九〇度転位していたが、前記認定のとおり、右時点においては感染症により原告の全身状態が悪化し、手術は困難な状態になっていたから、被告病院が原告の感染症治療を優先させ、その結果骨折部の接合ができなかったとしても、これをもって過失ということはできない。

3  争点3について

原告は被告病院には原告を感染症に罹患させた過失及び感染症罹患後も直ちに治療をしなかった過失がある旨主張する。

しかしながら、前者については、被告病院が患者に感染症を罹患させるような衛生状態であったと認めるに足りる証拠はない。原告は、被告病院は病院感染対策委員会を設置せず、病院感染対策マニュアルを作成していなかったし、消毒薬による手洗いも実施していなかったと主張するが、これらの対策を実施しないことから直ちに原告が感染症に罹患したと認めるに足りる証拠はない。

後者については、前記認定のとおり、被告病院は原告に不整脈や顕著な発汗が認められた一二月二日には直ちに抗生剤による治療を開始し、その後も治療を継続したのであって、原告に対する感染症の治療が遅れたものということはできない。なお、原告は一一月一日から尿路感染症に罹患していたと主張するが、原告の病状の経過は前記認定のとおりであって、右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

第四  以上の次第であって、原告の請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないので棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大内俊身 裁判官木村元昭 裁判官堀部亮一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例